お言葉ですがが休載

http://web.soshisha.com/archives/word/2007_0621.php
高島俊男先生が週刊文春をクビになって以来ろくに文春読んでないんですが、webでやってる新連載のほうも休載に。

 筆者現在心神状態甚だ不振につき、この連載しばらくお休みさせていただきます。勝手の段深くおわび申しあげます。

年齢も年齢だし大丈夫なんでしょうか。
http://web.soshisha.com/archives/word/2007_0215.php

 わたしの岐路は何度もあった。心を苦しめてやまぬのは、片方を選んでいれば家族と家庭をもつことができた岐路である。
 悔いにはすりへりがない。毎日悔いて、悔いがすりへってしまいになくなってしまう、ということは決してない。悔いるたびに、そのつどその時のことを呼びおこし、肥大させてしまう。
 自分は生けるしかばねなんだ、心はないのだ、と自分に言いきかせてのがれようとするが、それでも悔いはやはり、家族を見るたびに頭をもたげる。
 夫婦あるいは親子——この世に生きているかぎり、これらを見ずにすませられるわけがない。逃れる道は死しかない。
 かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ
 どこに住んでいるか、それは無論わからない。しかしわかされの道のさきでわたしは、書斎にいる。おなじ家のなかに家族がいる。そのわたしに、現実のわたしの人生をつねに支配してきた臨時感はない。わたしの気持はあかるく、わたしは自分のあゆんできた道に満足している。
 現実のわたしは、毎日、この想像にさいなまれている。

猫猫先生が私淑している呉智英先生が一目置くほどの碩学高島先生にしてすら自らの喪男人生を悔いるのだから、孫弟子みたいな猫猫先生が孤独に耐えられず結婚してしまったのもしょうがないですね。